岩根の磨崖仏(花の木三尊磨崖仏) 伊賀市大内

徳治元年(1306) 
三重県有形文化財

花の木村

小径が小学校のグランドの外周から林の奥に延びています 戦前にはこの辺りは花の木村と呼ばれていて 今でも「花の木」を冠した名の公共施設や商店が多く見られます この小学校もまた花の木小学校という素敵な名前でしたが 数年前の統合再編で成和西小学校と名前を変えてしまいました

その小径をしばらくたどっていくと 路傍の大巌とその正面に彫られた三体の仏の姿に驚かされます 岩根の磨崖仏 花の木三尊磨崖仏とも呼ばれる伊賀を代表する磨崖仏です     南面する岩の正面を幅221cm高さ148㎝の隅切りの枠に彫り窪め 中央に来迎印の阿弥陀如来 右側には施無畏与願印の釈迦如来 左側は錫杖宝珠を持つ地蔵菩薩が厚肉彫りされています 地蔵の円光左右に『徳治第一年月日』『願主沙弥六阿弥』の銘文があります ※市田進一氏平成24年「伊賀の石仏拓本集」清水俊明氏は『徳治第一年九月日』※昭和49年大和の石仏 太田古朴氏は『徳治三年八月廿四日』『願主沙弥上□阿』※平成元年続三重県石造美術 と読み下しています

各尊の両脇には蓮華をさした宝瓶が彫られています 像脇左右に蓮瓶を供花として添えたものは柳生の元応元年(1319)銘ほうそう地蔵や奈良三条町の元亨二年(1322)弥勒石仏が思い出されます 徳治元年1306年作のこの石仏が南北朝時代の流行に先行するものであることがわかります

地蔵菩薩は両側下部を合掌した小坐像が四体で囲んでいます 川勝政太郎氏や清水俊明氏は供養者とし 太田古朴氏は四尊小仏としている 左端には別の隅切り枠を取り中に高さ1.21mの板型五輪塔を浮き彫りにしています

岡山の北向地蔵さんが東の横綱ならば ここ岩根の磨崖さんは間違いなく西の横綱でしょう
磨崖仏の前の小径を岩根川に沿ってそのまま西に辿ると白樫を経て月ケ瀬に至ります 白樫から南に下れば遅瀬辺りから大和高原に入ることもできます ここは大和の文化がいち早くもたらされる場所だったろうとおもいます

何度訪ねて写真を撮らせてもらったかしれない これといった写真が撮れたことは一度もない 伊賀に散在する地蔵さんは 大抵が優しくおかどの広い地蔵さんらであるが ここの磨崖さんは寡黙だ 露出を変えて何枚も何枚もシャッターを切るわたしを黙って見ている ずっしりと重い空気がある

三重県指定文化財 岩根の磨崖仏 菅原大辺神社

この大岩は幅約8m、奥行約7m、高さ約3mの花崗岩の自然石です。ほぼ平面になっている南面には、向かって右から釈迦如来、阿弥陀如来、地蔵菩薩を肉彫し、さらのその左側には五輪塔が浮彫されています。
釈迦は過去仏、阿弥陀は未来仏で、過去と未来の関係でよく一組で考えられており、また阿弥陀は極楽の教主、地蔵は地獄からの救済がおもな役割で表裏一体の関係にあります。この三尊を並べて、人々は極楽浄土への往生を祈願したのでしょう。
諸尊の間には、蓮花を入れた花瓶が添えられ、地蔵菩薩の両すそ部には左右二体ずつ合掌する地蔵菩薩坐像が見られます。また地蔵菩薩の両側には右に「徳治第一年月日」(1306年)左に「願主沙弥六阿弥」との刻銘が確認されています。
五輪塔は、死者が空風火水地の五大へ帰っていったことを象徴的に示し、死者への供養の意が込めれています。
なお、岩面の四隅に方形の孔が見られますが、この孔に柱を差し込み、庇状の覆屋がかけられていたと考えられます。
これらの仏達は、鎌倉時代後期の作とみられ、激動の中世の世から、穏やかな視線で現実を見つめてきました。人間の愛の深さと哀しみを包んでいるかのように見える眼に、この世はどのように映ったのでしょうか。かって、この仏の前には大和と伊賀を結ぶ街道があり、通りかかった多くの旅人は、どんなにか心がなごんだことでしょう。
伊賀市教育委員会

現地案内板より引用

参考書籍

「伊賀の石仏拓本集」P92 市田進一
「三重県石造美術」P33 太田古朴
「伊賀」P53 川勝政太郎 
「石仏ー庶民信仰のこころ」P164 清水俊明
「大和の石仏」P110 清水俊明 

コメント

タイトルとURLをコピーしました