南北朝時代
伊賀市指定文化財
木津川の流れのすぐそばにある籠堂 その跡地が会所のようにして現在も利用されています そこから木津川の川辺に向かって下っていくと 左手の高台に小さな覆い堂が見えます
行者堂記 島ヶ原観光協会
行者堂
現地碑文より引用
この下に木津川の清流があり、この山一帯を岩谷山という。木津川に合流している小さな川を小山川といい、かつては神谷川と呼ばれた。木津川との合流点付近を岩谷峡よよんでいる。下流は熊橋峡につながる。この熊橋には昭和二十年来頃まで丸太の橋があり川向こうに渡ることができた。江戸時代の元禄年間の国境争いで、柳生藩はこの小山川までを山城国領と主張し、藤堂藩は、さらに木津川下流のあさこ川を以って伊賀国領と主張した。激論が闘わされたが、幕府の裁定の結果、両川の中間点辺りを藤堂、柳生藩領の境とし、そこに両藩の境を示す杭が立てられた。その場所を二本杭と称している。この小山川沿いを標高六百メートルの北山連峰に進と和銅三年(710年)に山城と伊賀を結ぶ道が開かれた和銅の道がある。特に夏場この小山川沿いにたくさんの蛍が飛び交う。島ヶ原は、近江、大和、山城、伊賀の四カ国に囲まれた伊賀国の西端にあり、ここに行者堂がある。小山川を挟んで東側に行者籠堂と指定文化財の阿弥陀磨崖仏がある。磨崖仏の制作年代は南北朝から室町時代と推定されている。行者籠堂と磨崖仏の対岸には行者堂、大師堂、不動明王像があり、行者堂には自然石の岩屋の中に二百年ほど前に大峯さんからもらい受けた役行者像が祀られている。左隣に祀られているのが不動明王である。ここは信仰の霊地として阿弥陀如来像が刻まれているのは当然だが、この像を大日如来と呼んでいる。江戸期以降密教との関係の深い役行者が祀られるようになると、役行者によりふさわしい仏として大日如来と称するようになったのであろう。
阿弥陀磨崖仏 島ヶ原村教育委員会
南北朝時代の作と推定され、厚く大きく張った膝、高い肉髪、大きい定印、長方形の大きい蓮弁、笠置寺の四方仏山城如来の磨崖仏に類似するものがあり、肩先に彫られた梵字は江戸時代の追刻である。※笠置山の十三重塔四方仏
現地案内板より引用
参考書籍
「伊賀の石仏拓本集」P2 市田進一
「島ヶ原村史」P859 島ヶ原村
コメント