年代不詳
成福寺の赤い鐘楼を眺めながら大仰橋を渡ったあたり 戦前にはこのあたりにも軽便鉄道が走っていたそうです そういえば 子供の頃にはバスや電車によく乗ったものですが ほんの少し昔のことだというのに隔世の感があります 私たちの見慣れた風景も 一時の記憶の中にあるだけで じつはうつろいやすいものなのかもしれません
雲出川の左岸を辿ってい句ことにします この道が旧初瀬街道で もう少し先へ進めば亀ヶ広と呼ばれる桜の名所です 古代以来の幹線道ですから 参宮客も多くが行き来したことでしょう 本居宣長も菅笠日記の中で書き記しています
谷戸大仰などいふ里を過ゆく こゝまで道すがら ところ 櫻の花ざかり也 立やすらひては見つゝゆく しばしとてたちとまりてもとまりにし友こひしのぶ花のこの本 大のき川大きなる川也 雲出川のかはかみとぞいふ 此川のあなたも 猶同じ里にて 家共立なみたり さて川辺をのぼりゆくあたりのけしき いとよし 大きなるいはほども 山にも道のほとりにも 川の中にもいとおほくて 所々に岩淵などのあるを 見くだしたる いとおそろし
宣長さんもご機嫌の道中だったことが窺えますね 街道からは真盛上人の誕生寺も眺めたはずですが 国学者の宣長は一顧だにもしていないのも面白く感じます
さて 川の湾曲に沿って進みゴルフ場への入り口を過ぎると 左岸沿いの大きな岩に磨崖仏が刻まれています 先ほど触れた天台真盛宗の開祖 真盛上人が幼ない頃に笠に乗って雲出川をさかのぼってここに着いたという言い伝えから笠着地蔵と呼ばれています
由来
現地案内板より引用
此の淵は天台真盛宗の宗祖(円戒国師、慈摂大師)真盛上人ゆかりの地である。母君が地蔵尊より珠を授けて頂いた夢を見られ、大仰誕生寺境内の屋敷跡(小泉家)にて出生せられたのが真盛上人である。(西暦1443年)上人は幼名を宝珠丸といい、宝徳二年(西暦1450年)御年七才の頃、出家されるについて、父母との別離を哀しみむずがられたので、父、藤能は一時の方便に大仰川に流せと命じた。侍者は真に受け笠に入れて権現ヶ淵に流すと不思議にも河上に向って逆さに流れ、此の淵に着き祥雲俄に起り、宝珠丸を包み岩の上に助けあげられたと伝られる。その後、川口光明寺(白山町川口光明山盛源寺)盛源律師に随いさらに比叡山に登り、厳しい仏道修行を重ね、学道成就されたのである。宝珠丸は非常に聡明で地蔵様の化身ではと言われたので、岩石に地蔵尊を刻み、誰言うとなく淵の名を笠が流れ着いたので笠着地蔵、逆さに流れ着いたので(逆着地蔵)と呼び、多く老若男女の方々より親しまれ信仰を集め今日に至っている。合掌
よく見ると錫杖は持たず 両手で宝珠を捧げ持っています 『母君が地蔵尊より珠を授けて頂いた夢を見られ』とあるように 宝珠丸 真盛上人の姿を写した地蔵さんのようです
すぐそばの川の中の大岩にも「逆さ地蔵」と呼ばれる磨崖仏が刻まれています もとは現在の笠着地蔵さんの側の磨崖に彫られた地蔵さんですが 安政の大地震の際に断裂して河岸に転落したのだといいます
少なくとも安政の大地震より前 江戸後期には磨崖に刻まれていたことになります 他の方もブログで書かれていますが おそらくこちらの地蔵さんが もとの笠着地蔵さんなのでしょう 地蔵さんの左側の龕部には阿弥陀さんが刻まれていたといいますが 今では摩耗してしまって姿を確かめることはできません
逆さ地蔵さんの大岩の頂上に もう一体 地蔵さんの姿が刻まれています
こちらは「逆さ」ではないので 大岩が転落した後で刻まれたということになるでしょうか
よく見ると地蔵さんの右上の岩肌に刻銘が刻まれています
参考書籍
広報つ!平成30年8月16日号 初瀬街道の大仰宿と笠着地蔵 津市
一志町史下巻 一志町
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