正和三年(1314)
三重県指定文化財
書紀の宣化紀に新家屯倉のことが書かれています「物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀」町内に所在する式内社物部神社との関係からこの新家町に所在したと考えられています そのように古い在所なのですが もともとは雲出川流域の低地にあった集落で 寛保元年(1741)の雲出川の洪水で被害を受け 宝暦九年(1759)に現在の高台に集団移転してきたという経緯があります
光明寺のある新家地区を訪ねるには近鉄名古屋線の線路を渡ってしばらく歩くことになります 狭い道路沿いに家並が細長くのびていて その一番奥の場所が光明寺でした 境内のいたるところに花が植えられていて美しいお寺です
光明寺の地蔵さんは右手に錫杖を持ち左手に宝珠を持った定形の地蔵さんです 全高が約2メートルありお堂の中ではかなり大きく感じられました 「正和三年八月二十四日」の銘があって 三地蔵さんの中では二番目に施入された地蔵さんになります 集落が現在地に集団移転する以前は地蔵堂と呼ばれた旧地の墓地で六地蔵の頭として立っていたと言われています また近年までは背を上にして小川の石橋になっていたとも伝えられています
参考書籍
「久居市史(上巻)」 P167 久居市
「一志郡史(下巻)」P539 一志郡
「三重県石造美術」P65 太田古朴
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