室町時代
津市指定文化財
わたしの通っていた職場からなら10分ほどで行ける場所ですが 仕事の途中で寄ってみるわけにもいかず 結局○十年も経った今日になってようやく訪ねることができました 三重県の平野部には中世の磨崖仏は少ないので 津や松阪や鈴鹿からも見に来てください 不揃いな意匠の不思議な七体地蔵さんですが なかなか立派な磨崖仏です
地蔵さんの像容をみていくと 宝珠と錫杖を持つ地蔵さんと合掌する地蔵さんが並んでいる中に一体の地蔵さんだけが少し珍しい姿で立っています 左から二体めの地蔵さんです 左手で宝珠を持ち右手を与願印に結ぶ古式の姿の地蔵さんで 名張などでは見かけますが伊勢の平野部では珍しいのではないかと思います そしてよく見ると この地蔵さんだけは蓮坐の下に蓮茎が彫られています
このように地蔵さんの持物に統一性がみられないことなど これらの地蔵さんが六地蔵を(六道のそれぞれにあって衆生の苦しみを救う)意図したものではなく 地蔵さんの群像と見るのが正しいような気がします 小野平千度坊の十五体地蔵と同じ系統のようにおもいます 制作された時期も右五体と左二体で異なるかもしれません
六体地蔵七体地蔵
日南田のはずれ、山の中を流れる川岸に、大きな天然石に刻み込まれた磨崖石仏像があります。右岸に七体地蔵が、そして五十メートル上流の対岸には六体地蔵が彫られています。
現地案内板より引用
七体地蔵には言い伝えが残っています。昔、仁木義長と佐々木氏頼、そして土岐頼康が戦った時のことです。
川の近くの小高い山には、伏兵防戦に備えて、多くの石がありました。それらの石を里人は「よせ石」と呼んでいました。そのよせ石のある山で戦いは行われたのです。仁木義長は土岐頼康に目掛けて山の上から石をころがしました。
戦うといっても、土岐軍はたったの七人。全員が討死しました。その後、戦死者の供養の為に七体地蔵が彫られたというのです。
同じように、六体地蔵も戦国期の武士の供養の為に彫られたというのです。
今でもその名残として、毎年7月七日に、酒やさかなをお供えをする「べざいさん」という祭りを行っています。
昔、仁木義長と佐々木氏頼、そして土岐頼康が戦った時のこと
南北朝時代のはじめ頃 雲出川から南は国司家北畠氏が勢力圏を維持していました 北には亀山城を本拠に関一族がはるか北勢までその勢力を展開していました その中間に位置する安濃の辺りは絶えずふたつの勢力に挟まれ激動する地域でした 案内板に書かれた地域の伝承には「昔、仁木義長と佐々木氏頼、そして土岐頼康が戦った時」とあります その辺りの事情について 簡単な年表にしてみました
暦応元年/延元3年(1338) 足利尊氏の命により高師秋伊勢国守護となる しばしば南朝方と戦い神山城(松阪市)を陥落させる。
興国2年/暦応4年(1341) 高師秋田丸城(玉城町)を陥落させる
興国3年/康永元年(1342) 北畠氏本拠を多気(津市美杉町)に移す 高師秋北畠氏攻略を再開する 北畠顕能長野城を攻めるが高師秋の救援により失敗
興国7年/貞和2年(1346)3月 北畠氏長野城を攻略 当主長野藤房は自決 その子豊藤は京に脱出し仁木頼章を頼った
興国7年/貞和2年(1346)9月 高師秋長野城攻略に失敗
正平3年/貞和4年(1348) 高師秋再び長野城攻略に失敗
正平5年/観応元年(1350)9月 高師秋長野城攻略 草生久保合戦(津市安濃町草生・津市美里町家所久保) 高師秋敗走
正平7年/文和元年(1352) 足利尊氏仁木義長を伊勢の守護職に任じ北畠氏攻略を命じる 4月仁木義長長野城を陥落させる 豊藤により長野家再興
正平13年/延文3年(1358) 足利尊氏死去
正平15年/延文5年(1360)7月 仁木義長失脚 京より守護国伊勢に逃亡し長野城に入る 幕府は佐々木氏頼と土岐頼康に討伐を命じる
正平16年/康安元年(1361)2月 仁木義長南朝に下る
これを見ても 当時この辺りが厳しい戦乱の真っ只中にあったと言うことがわかります そして地域の伝承に残された「昔、仁木義長と佐々木氏頼、そして土岐頼康が戦った時」とは 正平15年/延文5年(1360)頃に実際にそのような戦闘があったということがわかります
この地蔵さんを誰が何の為に作ったのかということは 今となっては知る術もありませんが 600年以上も前に地域を襲った戦乱の歴史を その造立譚の中に封じ込めるようにして今に伝えているということが この石の仏の凄さではないかとおもいます
参考書籍
「美里村史下巻」P456 美里村
「三重国盗り物語総集編」伊勢新聞社
コメント