室町時代
経ヶ峰の北東に位置する摺鉢山 その山麓に千度坊十五体地蔵と呼ばれる多尊磨崖仏があります
小野平の集落の外れから山道に入っていくことにします 昔そのあたりにには熊岳山仙幢寺という大寺がありました 長野氏の菩提寺で江戸時代のはじめ頃までは存続していたといいます 千度坊の十五体地蔵のある場所はその仙幢寺の門前にあたるといわれています
山道を行くと右手の高台にたくさんの地蔵さんが彫られた大巌があらわれました 光背を彫りくぼめた中に薄肉彫りされた地蔵さんが並んでいます 正面六体の地蔵さんを他の地蔵さんが思い思いに取り囲んでいます 次々に追刻されていったもののようで 同じ津市美里町日南田の七体地蔵とよく似た雰囲気を持っています 日南田の七体地蔵の由緒については観応の擾乱の頃の戦死者を供養したものという説があるのですが この磨崖仏にも同じような制作の趣意があったのではないでしょうか そのことを考えるためには仙幢寺を菩提所としていた長野氏について少し知っておく必要がありそうです
鎌倉時代から中勢の有力国人として君臨した長野氏ですが 南北朝時代に入ると南朝方国司北畠氏の進出により両者の覇権争いが始まりました
室町時代に入っても抗争は続きます 正長元年(1429)の岩田川の戦いでは明徳の和約に基づく両統迭立を求めて蜂起した北畠満雅を敗死に追い込みました また応仁の乱(1467)では長野氏は西軍の山名宗全側 北畠氏は東軍の細川勝元側に属して争っています
戦国時代に入ると北畠氏が七代目当主北畠晴具のもとで勢力を拡大し また近江六角氏の北伊勢への圧力が強まったことで長野氏は次第に力を失い 永禄元年(1558)北畠具教の次男具藤を養嗣子として迎えて長野氏の家督を継がせることで両家は講和しました このように長野氏は名跡を残しつつ北畠氏に臣従する道を選んだのですが そのわずか四年後の永禄5年(1562)に先の当主であった長野藤定は死去します 父稙藤も同日に死去しているため北畠家により暗殺されたのではないかとも考えられています
ちなみに後に北畠氏も信長の侵攻を受け信長の三男信雄を養嗣子に迎え家督を譲る形で講和をしますが その翌年には三瀬谷に隠棲していた具教は殺害され具房は安濃河内に幽閉と 長野氏と同じ末路をたどりました
これら血みどろの抗争の歴史を思うと 長野工藤氏の菩提寺に残された十五体の地蔵は やはり一族の戦死者を供養するものではないかとおもえます 戦場を駆け抜ける武士ですから 死んで修羅道に堕ちることは止む無しとしても必ずや地蔵さんが現れて代受苦の力で救ってくれるに違いない そんな願いが聞こえそうな気がします
永禄の頃には長野家は廃絶していますから制作された時期も室町後期を下ることはなさそうです 一石に彫成する六地蔵の流行は江戸時代に入ってからのことですから 六地蔵を中心とした多尊仏として見た場合に限っていえば 伊勢の平野部ではかなり古いものといえそうです
参考書籍
「芸濃町史下巻」P125 芸濃町
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